第4章 逡巡する心


アンドリューは、ハムレットの稽古を始めた。
それをみて、私はひとまず安心した。
この子を、一流にしたい。その想いだけでここまでやってきた。

ハムレット

演劇学校以来きっと彼は忘れてしまったに違いないシェイクスピア。
彼はテレビ俳優ではない。「俳優」。私は彼を俳優にしたかったからこそ。
周りの評判は、様々だった。実際彼を売り込むのには一苦労したのは確かだった。
舞台監督は、「L.A医学界」のアンドリューを見て、オーディションを見て、
最初はかなりアンドリューを使うことを渋っていた。
大方の人間は「慈善事業だから」と、彼のネームバリューだけに期待していた。
肝心のアンドリュー本人は、トレイル・バーストビスケットのCMに
ひどくご機嫌斜めで、扱いにくくなっていた。
だからこそ。だからこそハムレットだったのだ。

けれども最近のアンドリューは違う。何かが違う。
いや、相変わらず演技はぎこちない。あのバリモアには遠く及ばない。
のに何か違うのだ。

私にはその原因はとんと、分からないが、彼は今はもう「嫌々」やっているように見えない。
ハムレットの「心」を掴もうとしているように私には、見える。
何が、彼をそうさせるのだろう。
怖い位に最近のアンドリューは何かを「求めて」いる。
読み合わせが始まり、立ち稽古が始まり、彼は徹底的に絞られた。
それでも彼は、めげなかった。あの愚痴たれアンドリューが。
何を求めているのか、何が彼をそうさせるのか、私には分からない。
ディアドリは上機嫌で「ああ、私のハムレット様!」などと言っている。
普段のアンドリューだったらきっと、舌打ちして嫌々ながら付き合っていたに違いないのに、
まるで彼女をオフィーリアであるかのように扱う。
そう。恭しく、愛情を持って。かと思うと、狂乱したハムレットのように冷たく。

何がそうさせるのかは分からないが、私はとりあえず一安心した。
ああ、これでこの子も「俳優」になって行ってくれるに違いない。
そう私は確信した。
残された時間は少ない。だからこそ、この子に賭けたのだから。

その安心感から、私は身体を壊して数日、横になることになってしまった。
アンドリューには別の用事を言って、留守にすることにしておいた。
今の彼に、私を心配してもらう必要はない。

ベッドで思い出すのは、「あの」ハムレット。
大袈裟とも言われた、あのハムレット。それでも私は、そのハムレットが大好きだった。
手が届かないと、もう届くことなどないのだと分かっていても、何度も観た。
決め台詞。あれは、あの人にしかできない響きと重みと、そして官能さを持って、
観る者すべてを魅了した。

人は、終わりが近づくと人生を走馬灯のように思い出すという。
私も今、振り返りの時期に来ているのかもしれない。
この「自由の国」に渡ってきてから、何十年走り続けてきただろうか。
女ひとり生きていくために…。

私はあの家で見つけた、母のヘアピンを手にとってもう一度眺めてみた。
思い出さないように努めてきた私の半生。
我が祖国からの唯一の形見。
失ったものが、再び私の手に戻ってきたのだ。
もう、そろそろすべて、失ったものが私の手に戻ってきても良いのかもしれない。
もう、潮時なのかもしれない。

いや…そうではないのだ。
ただ気付かなかっただけ。

私は何も そう、何も失ったわけではない。ただ、気付くだけ。

気付くだけ。…そう。私は気付いている。
なのに、見ないふりをしている。知らないふりをしている。
なぜ?…気のせいで、あるかもしれないから。
あってほしいような…あってほしくないような。
でも、私も変わった。あれからもう10年単位で年が経過している。
今更、何を語ることがあるだろうか。
そして…そんなことを信じているなんて、滑稽ではないか。
だからこそ、見ないように、聞かないようにしていた。
もう何週間も、何週間も。
―――――

風邪は思ったより長引いて1週間してから、久々にアンドリューの稽古に立ち会った。
彼がどれだけ成長しているか、楽しみでもあった。
もう本番も目前に控え、彼も緊張しているだろうと思いつつ、
客席の後ろの方から我が子を見るような想いで観る。
ずいぶんと台詞回しが良くなった。随分と動きに無駄がなくなって、かつ派手になった。
あら…ディアドリが…オフィーリアの侍女で出ているなんて…。

―…生きるべきか…死ぬべきか。 それが問題だ…。

時が、止まった。この声。この調子。この…威厳。
そして、私は確信した。
気のせいなどでは…なかったのだと。
やはり、そうだったのだ。あのときの私の感じたものに偽りなどなかったのだと。
だから、アンドリューは変わったのだと。

会わなければいけない…。でも…いつ?
何のために…?
私は再び、逡巡の渦に巻き込まれていった。


        


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