第3章 確信


私はドアを閉め、手にした髪止めを見た。
そしてそれをポケットに滑り込ませ、慌てて階段を下りた。

ありえない。そんなことありえないのだ。

車に乗り込み、慌ててエンジンをかけ、アクセルを踏み、急いで家へと向かった。
心の中にしまいこんだ私の半生が、今、音を立てて甦りつつあった。

家に着いて、必死になって階段を駆け上がりドアを開け、ソファに身体を投げ出し、
カバンをひっくり返した…。
そこには、アメジストの花びらをつけたアイリスの髪止めが、あった。
それを見つめると、花弁の1枚に小さな引っかき傷があった。
裏を見ると、Iris と小さく刻まれている。
間違いない。私が40年以上も前にあの部屋でなくしたヘアピン。
探しても探してもなくて、なくなったものと諦めていたと言うのに…。

私の封じ込めてきた半生。この国で生きるには、誰かに分かち合うことなどできなかった半生。
あの日、あの夜、母が私の手にただ1本、これだけを滑り込ませ、
涙を浮かべて娘の逃避行を見送ってくれた。

母の髪に、このピンはよく似合った。美しい豊かな金髪をした母の髪には、
このエメラルドの枝とアメジストの花弁を持つアイリスは良く映え、
私たちはいつもそんな母を自慢に思っていたのだ。
父が、母にした最初のプレゼントだったのだと、母は嬉しそうに言っていた。
その当時流行のアイリスは、母の名前と同じ。
流行のアール・デコの美しい曲線をいっぱいに活かしたしゃれた造り。
その土台の金の美しさは今でも変わらない。

そんな平和な生活が破られたのは、私が20代半ばのころだった。
日増しに激しくなる戦争とユダヤ人虐待に、私は不安を募らせるばかり。
あの人がつかまるのも時間の問題かもしれない。という苦しみと、
家族に害が及ばないためにはどうしたら良いのだろうという胸苦しさが
絶えず私をさいなんだ。
そんなある日、その人はこう言った。「アメリカに行く。ついてきてくれ」
見つかったら家族が被害を受ける。見つかったら…。
しかも、アメリカに行ったら私は敵国人なのだ。知っている人など誰もいない。
そんなところで生きていかれるのだろうか…。
それでも、心は決まった。

その夜、私は小さなカバン1つだけを持ち、家族が寝静まった夜中、
音を立てないようにそっと部屋のドアを開けた。
もう2度と見ることのないであろう我が家。私の故郷。
愛する家族…
見つかったら、すべてがおしまい。
宝石も何も持っていかれない。最低限のお金、着替え。
写真も何も、持っていかれない…。
そんな気持ちを振り切るようにそっと居間に出た途端だった。

―リリアン。

私は驚いて振り返った。そこには寝ていると思っていた母が、ガウン姿で立っていた。

―行くのね。

母はひとこと、尋ねるわけでもなく、私を見つめていた。
ああ、どうか、どうかあなたの娘を許してください…。
私は涙が出るのを必死でこらえながら、何も言わずに頷いた。

―持って行きなさい。こんなことしかできないことを、許してちょうだいね。
   いいこと、幸せになるのよ。どこに行っても、何があっても、幸せになるのよ。

と、私の手に、母はヘアピンを握らせた。
アイリスのヘアピン。そして、しっかりと私を抱きしめた。
母の愛情のすべて。他に何をすることも許されないからこそ、できる精一杯、
その想いがいっぱいに込められていた。
声を上げることは許されない。泣き出したいのを抑えながら、
私は母を抱きしめ、小さくごめんなさい、と繰り返した。
母は何も聞かず、私の肩をしっかりと両手で包み込み、

―さあ、もう行きなさい。身体に気をつけるんですよ。

そう、私を促した。
そして、身体を引き剥がしてくるりと踵を返すと、部屋へと、戻っていった。
私は…玄関のドアを開け、待ち合わせの場所まで、憲兵の目を盗んで走った。
こうして私は家族を捨てたのだ。

この話を、私が家族と引き換えに選んだあの人は嫌った。
悪い冗談のねたにさえ、しようとした。
彼にとっては、自分を虐げる敵国でしかなく、それは私の家族といえど変わらないのだ。
彼が悪いわけではない。そうさせた時代が悪いのだ。
そう思おうと何度しただろう。でもそれは、できなかった。
私は、何度もこのピンを握り締めて、ひとり泣きじゃくった。
誰にも、故国が恋しいなど言える時代ではなかった。

そんな私の話を、一生懸命に聞き、私のピンに見入っては、
何度も母の話をせがんだ人がいた。
その人こそ、そう。私が一生涯忘れることのできない人となった。
私が、約束の場に私をこの国につれてきた人が現れず、独りで置き去りにされ、
すべてを捨てて来たことが間違っていたのかと、クロークでうずくまっていた時、
その人は現れた。
泣いている私の肩に手をかけ、その人はこう言ったのだ

―泣いちゃいけない。アイリスの花がしおれてしまうよ。

彼は何度も私の話しを聞きたがった。
どんなに故国が恋しいか、どんなに家族が恋しいか。どんなに一人ぼっちだったか。
すべてを吐き出すことを、私は初めて許された。

―お母さんの金髪にも似合ったのかもしれないけれども、
   君のその黒髪にもこのアイリスはとても似合う。

今から考えると、聞くだけで背筋がぞくぞくするような言葉を彼は惜しげもなく言った。

―忘れる必要はないし、封じ込める必要も、ないのだと、私は思うよ。
   君の生きてきた時間だし、君という人が創られてきた時間だ。
   大事にしておけばいい。恥じる必要はないし、そんなやつがいるなら、
   それだけの器だと思えばいいのではないかな。

そうも言った。

私は再び、手の中のピンを見つめた。
交錯した時間の狭間から落ちてきたような、そんな雰囲気すら漂っている。
そう。何十年も昔から、戻ってきたのに違いない。これが、サインだったに違いない。
このピンが存在する時間は「現在」ではない。そんな気すらする。
…ばかばかしい。そんなはず、あるはずないではないか。
いや。でも、それでは、なぜこれが、今、私の手に戻ってきたのか。説明がつかない。

あの人は、あのドアを出て行くとき言った。

―すぐ戻ってくるから。

約束は破らない人だ。だとしたならば。


        


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