翌日、アンドリューの日程調整と例のハムレットがどうなっているのかを確かめ
その足で彼の新居に向かった。外は寒く、風がうなっている。
何十年もの間、私はわざとそこを通るのを避けていたその通りを目指していた。
雨が降りそうだ…そんなことを思いながら、車を走らせる。
あの日。何を考えていたのか、どうしてそうなったのかは憶えていない。
でも、そうなったことだけは、憶えている。遠い、遠い遠い日の記憶。
泣いていた私。今みたいにミンクを着ているなんてだれが思っただろうか。
この街は変わった。住んでいる人も、店も。
そして、人は移り変わる。私も、そのうち誰かの記憶の中にしか生きていなくなるのだろう。
調停は最悪だった。
私が悪いことになっていたけれど、置き去りにしたのはあの人なのだ。
どこからか洩れたのか、別に構わないけれども噂話が法廷に持ち込まれた。
さすが裁判の国だった。迷惑をかけることがなかったことだけが幸い。
多分あの人はそんなことになっていたなんて知りもしないに違いない。
戻ってくるといったのに戻ってこなかったあの人。
そして私は、その場所にいつの間にか降っていた雨のはねを上げながら到着した。
見上げた途端、40年以上変わらない。
そしてたった2度見ただけのその風景が
まるで記憶の中から浮かび上がってくるように目の前に現れた。
−O Jeez
思わず私はうめいた。なんて偶然だろう。変わらない。
もっと変わっていると思っていたのに。全然変わらない。
心の奥底からわくわくするような、そんな気持ちが湧き上がってくる。
中は変わっただろうか。いや、変わったに違いないけれど。
どきどきする。いや、ばからしい。20歳かそこらの小娘でもあるまいに、
バリモアの家だというだけでこんなに動悸がするなんて。年なのよ、年。
頭を振って、インターホンを押した。
−もしもし?
アンドリューの声がする。後ろできゃあきゃあ言う声もする。先客がいるようだ。
−ああ、私よ。
−上がって来いよ。早く。
がちゃ、とロックが外れる。中に入って階段を上ってみた。
手すりの鉄が掌に気持ちよい。ほどよく冷たく私の身体を冷やしていく。
このアパートはもともと、1フロアがメゾネットのようになっているから、なかなか辿り着かない。
その時間が私には好都合だった。
上りきったそこに、扉がある。見覚えのあるその扉の横にはすでに
「アンドリュー・ラリー」
という名前がかかっていた。
−ふ…ぅ。
思いがけなく出た自分のため息に苦笑して、ドアをノックした。
何が私を迎えるのか、分かりきっていたけれど…一抹の期待をして。
…っ!
思わず咳き込んでしまった。最近多い。身体が思い通りに動かなくなってきている。
身に憶えはあるけれども、まぁ年が年だから。バリモアが逝った年よりも10年も長生きしてしまった。
それくらいの年なのだから致し方ない。煙草をやめたくはないのだし。
−リリアン、リリアン、大丈夫かい??
扉が開いて、そこに、アンドリューが立っていた。慌てて駆け寄ってきて心配そうに覗き込んでいる。
−大丈夫よ。はい、これ取っておいて。
私はこの子を、俳優にするのだ。そう思いながら持ってきたシャンパンを差し出そうと顔を上げた。
…私の前には、思ったとおりの部屋が私を待っていた。
中に入り、見回すと、思わず頬が紅潮するのが自分で分かった。
白い布が家具を覆っているけれども、分かる。あの暖炉。あの棚。
ドアから流れてくる、この世界とは違った風の流れが私を包み込み、
さっきから私を刺し続けてきたちりちりする痛みをメレンゲのような軽い甘さに変える。
−ここよ…憶えてる通りだわ。
思わず私の口から、言葉が滑り出してしまった。それをアンドリューが聞きとがめて来た。
−前に、来た事があるのよ。でも念のためにね、確かめないと、と思ったわけ。
軽く流してそこにいた二人と挨拶を交わした。
アンドリューのガールフレンドには初めてご対面だ。なかなかかわいいけれども、
手ごわそうな相手。アンドリューの手に負えるのかどうか。なんだか違う世界に吹っ飛んでいそうだし
これで29歳とは驚きだ。私がアメリカに来た年齢とちょうど同じ。
一方でフェリシア・ダンティンも初対面だけれどもこっちも変り種だった。
堂々たる風格というか物怖じしないというか。NYっ子というか。
とにかく二人とも気に入ったし、ある意味同類であることに変わりなく、話していて楽しい。
年寄りだからかもしれないが、やはり若い人と話すというのは生活していくうえで必要だ。
さっきの一言を聞きとがめてさらにアンドリューが突っ込んでくる。
−ねぇ、どういうことなのさ。前に来たことがあるってのは。
ちょっとだけ、謎をかけてからかってやろうという気持ちになって、私はちょっとだけ、言葉を紡いだ。
−そうね。1940年代だったと思うわ。アメリカに来たばかりの頃よ。魔法みたいだったわ。
どこにもかしこにも花がいっぱいで。そう。魔法にかかって私、羽目をはずしたことがあるのよ。
アンドリュー、私のヘアピン、落ちてなかったかしら。
若者たちが一気に硬直する。矢継ぎ早に質問が来る。まさか…ここでやっちゃったの?誰と?
ディアドリなんて、目が異様に大きくなって、畏敬のまなざしで私を見ている。
彼らにとってはもうバリモアは、スターと言うよりも「歴史」。過ぎ去った過去でしかない。
−私はもう年寄り。昔の話なんてしないのがルール。悪趣味でしょう。
それに、ジェラシーの的になりたくないわ。それより、アンドリューのニュースの方が、先でしょう。
そして、アンドリューのハムレットにみんな話が集中する。
アンドリューのハムレット。
誰もがその、思いもかけない配役に驚きを隠せない。
そう、もっと驚いて。もっと。そういう反応があってこそ後々のギャップに繋がるのだから。
…いや、あくまでアンドリューが成功したら、ではあるけれども。
アンドリューの煮え切らない態度をもそっちのけにして、外野が騒いでいる。
…私も中に入って騒ぎながら、彼女たちと同時代に戻ったような気分だった。
この場所にいたのは、ちょうどそのくらいの年齢だったからかもしれない。
なんだか、昔の私になったような気持ちがしていることに気付いた。
そう、何でもできそうに思っていたあの頃に。
すべて自分の思い通りにいくと思っていた、あの頃に。
ー絶対何かの因縁よ!ああ、こういうところにいると、何か感じるのよ。
なんたってハムレットよ!?素敵じゃない、ハムレットにバリモア!因縁よ!
おぉ、バリモア!バリモア!
私がぼんやりしている間にフェリシアがバリモアを呼ぶように、
階段の踊り場で歌うように叫んだ。
ゴー…ンン…………
突然、鳴り響いた鐘楼の音に誰もが顔を上げた。
−あれ何。
私は誰にともなく訊いた。背筋に何か、こう、ぞくりとするものが走る。
冷たい汗が一筋、背中を伝っていくような。真っ暗な森の中で一声、ふくろうの鳴き声を聴くような。
−ああ。教会の鐘楼。通りの向こうにあるのよ、時計台。
なるほど、と納得しかけた時、アンドリューが何ともいえない顔をした。
自分の腕時計を眺め、なにかが目の前に出てきたようなそんな表情をしている。
−でも…今6時だぜ…。鐘は今…ひとつしかなってない…。
…誰もがしん、とする。6時半、とか5時半、ならまだ納得がいく。しかし、6時なのだ。
−すてき。ハムレットみたいじゃない。ハムレットのお父さんの亡霊が現れる直前。
亡霊は鐘がひとつ鳴ったら出てくるのよねっ
場違いなほど明るいディアドリの声が私の胸に響いた。
『亡霊が出てくる』
ちくり、と胸のどこかが痛む。この部屋。この空気。この痛み。
亡霊が出てくる。
−てことは…
とフェリシアが嬉々とした顔を上げたのが見えた。
−てことは、ここがNYだってことさ!ここでは何もかもが故障しているのさ!
案外怖がりなアンドリュー。度胸がないと、思わず心の中で笑ってしまう。
だめだ、まだ彼は、バリモアのようなハムレットにはなれない。しごかなきゃ。
必死で話をそらしているアンドリューを尻目に、女性二人はバリモアが現れるのだと興奮している。
−ねえ…もしかしたら、この辺にいるのかもよ。「彼」!
−わぁ素敵っ時間と空間を越えて、もし彼と接触できたら…どう。すごい素敵なアイデアでしょ!
と、意味ありげにフェリシアが、笑ってこう言う。
−私ね。交霊術ができるのよ。コンタクトが取れるの。あの世とね。
私、なくなった母と話をするのよ。だからもしかしたら、バリモアとも話せるかも。
途端に、ディアドリが興奮してやってみよう、と叫ぶ。
その母親との交信のためにした苦労を、笑い話のように話すのに、ディアドリはもう心酔していた。
紅潮したディアドリは、どこか幼げでかわいらしい。
…亡霊が出てくるのだ。
必死に嫌がるアンドリューを尻目に二人はさっさと準備を始めた。
テーブル、蝋燭、そして輪になって座り、手を取り合う。
部屋を暗くし、蝋燭の明かりが周りを照らすだけになる。
微妙に不気味な雰囲気がただよう。雨の湿気を含んだ重い空気がどこかから吹き付ける。
そんなおどろおどろしい雰囲気の中で、フェリシアは「交霊術」なるものを始めた。
痙攣していた彼女が顔を上げたようだった。上に向かって声をあげている。
話をしているらしい。答えは聞こえてこない…。
−うんうん、そうなのよママ。バリモアと話がしたいの。そう、ジョン・バリモア。
ママならできるでしょう、うんうん、そうなの。
しばらく交信(?)が続く。なんということだろう。もし、もしバリモアが現れたら、
私はなんと言えば良いのだろうか。何を彼に言えるだろうか。
フェリシアとその母親の交信を耳にしながら私はずっと、考えていた。
−ねえアンドリュー。何を聞きたいのかって言ってる。
…ということはコンタクトが…
私は咄嗟に
−役作りのアドバイスを、アンドリュー!
と声をかけていた。
あぁ、私が話せたら。私がバリモアと話ができたら私はなんと言うだろう。
眩暈がしそうになるのを必死で抑えて、はやる心を必死で鎮めて、私はなんと言うだろうか。
口々にみんながアンドリューをせかす。それにいらついたアンドリューがとうとう、
−バリモアなんて知るもんか。ハムレットなんてくたばっちまえ!
と…叫んだ途端だった。轟音。雷鳴。フェリシアが咳き込む声、ディアドリの悲鳴。
そんなものがいっぺんに押し寄せてきた。
フェリシアは何か見なかったかと聞くけれど、誰も、何も、見ていなかった。
…そう、何も。
すべては夢。ほんのちょっとは期待したけれども、すべては過ぎたこと。
私は今目の前にいるこの子を育てていくこと。残りの時間をこの子に費やすこと。
それを考えていればよいのだ。
…今の私では、それに、何も言えなかっただろうし。
そう思うと少しだけ、安心する。妖かしなどに惑わされずに私は年を重ねてきたのに。
そう、私はあの戦時中。アメリカに来たドイツ人だったのだから。
時を現在に戻そうと息を吸った途端、胸苦しさがこみ上げてきた。
咳き込む私を見て、アンドリューが駆け寄ってくる。そう、この子を何とかしないと。
−リリアン、リリアン。大丈夫かい。最近多いよ、医者には行ってる。
−医者は嫌というほど見たわ、もうたくさん。って、大概あなただったけどね。
「L.A医学界」。あそこからこの子を引っ張り戻さなくちゃ。それが今の私の役目。
私は大きく部屋を見渡した。素敵だった。宝石箱みたいだった。
何もかもがそのままで。エレベーターは変わっていた。
屋根の向こうに見える景色も、ロフトも。改築されていなくてそのままなのだ。
…もう、行こう。
−さて、行くわ。明日の打ち合わせ、忘れないでね、アンドリュー。
そういって、出て行くフェリシアについてドアをくぐった。
色あせない「夢」。あれは白昼夢だったのかもしれない。
女々しいと思いながら、もう一度だけ、振り返った……
−!
ありえるだろうか。いや、見間違えるはずはない。
駆け寄った暖炉の中にあったのは、落としたはずの、私の髪止めだった…
おお…神様…