第1章 巡ってきた好機


「LA医学界」が打ち切りになってから、アンドリューはやけになっていた。
折りしも、彼が苦手とする舞台の話も決まり、
スケジュールの調整やらなんやらに入っていたことも、原因のひとつだったかもしれない。
何と言ったって、題目は「ハムレット」。シェイクスピア劇なのだ。
とはいえ彼は5回もあったオーディションをクリアしてくれたのだし、私としてはやれると思っていた。
ここでそろそろ、舞台をやっても良い頃だったし何より「軽い」テレビ俳優で終わっては欲しくなかった。

…いや、そう思うのは私の年代だからかもしれないけれど。

私は20代後半でこの自由の国、アメリカにやってきた。
自分の青春時代にはそれこそ戦時中だったからもっぱらテレビは軍事放送ばかりだった。
とはいえ、やはり銀幕のスターにはあこがれていた。
ハリウッドからの名作の数々が、ドイツにもやって来るたびに私は映画館へ足を運んだ。
彼らにはスター然としたオーラがあり、近づけないようなそんな雰囲気を醸し出していた。

そして、ハムレットは私にとってはもうひとつの大事な、本当に大事な思い出のひとつなのだ。
ジョン・バリモア。あの忘れえぬ私にとっての永遠のスター。
年を経てなおその演技には人を惹き付けて放さないそんな魅力があった。
あのバリモアの当たり役、それがハムレット。
−生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だー
一目見たら忘れられない、そんな大きな存在感を持ったハムレットだった。

と、突然私の回想は、けたたましい電話のベルに打ち消された。

−もしもし、リリアン?
ホテル住まいのアンドリューからだった。
−引越しの件なんだけど、物件が見つかってね。けっこう広くて良さそうなんだよ。
   古めなんだけれど、フェリシアのお墨付きだし見に行くのも面倒でね、そのまま決めちゃった。
   …まずかったかな。

−別に自分が良ければいいんじゃないの。ただしセキュリティはきちんとしているんでしょうね。
   一応断っておくと、あなたはテレビに出ている人間なのよ。そこのところ自覚しているでしょうね。

−分かってるって。だから、フェリシアに任せたんだから。心配しないで。
   でさ。荷物なんだけどフェリシアが手配して移動してくれるそうだから、
   その後にまぁ、必需品だけ持って移動すればいいらしくてね。となると、多分3日後、移動しちゃうよ。

−明日にでもしてしまいなさいな。何ヶ月ホテルにいると思ってるの。
   ところで、住所は。もう決まっているんでしょう。

−あ、ちょっと待って。さっきメモしたんだけど……あれ。見当たらないな。
   後でFAXするよ。それでいいかい。地図つきで、さ。

−分かった。今晩中にね。後、移る時間帯も書いておいて。
   一度、エージェントに寄っていくから、多分その後になると思うけれど。

受話器を置いてから、外を見ると大分曇っている。
アンドリューをLAから引っ張り出して半年。やっと手に入れた千載一遇のチャンスなのだ。
そう、この夏にセントラル・パークでやる毎年恒例のシェイクスピア劇。
テレビで骨抜きにされたあの子の「俳優魂」を、プロの役者としての気持ちを取り戻せるかもしれない。
今年の劇は「終わりよければすべて良し」、そして「ハムレット」。
単なるテレビ俳優で終わらせないためにもこの役はどうしても引き受けさせたかった。
そう、ハムレットだけは。
これができれば、あの子は変わる。アンドリューは、もっと「俳優」になる。
あんな何処にでもいそうな、ちょっとばかり垢抜けたそんな「スター」ではなく。
あの銀幕の英雄たちのように。
そのためには、このハムレットは逃してはならない。
…そうでなければLAから引っ張り出した意味がないではないか。
残された時間、アンドリューのために費やしてやりたい。あの子にはその値打ちがある。

キッチンに立っているうちに電話の音が鳴る。取りに戻るとFAXが紙を吐き出していた。

−Dear Lilian 住所と、地図を送ります。荷物は明日のうちに移動するよ。
  午後4時ごろ僕自身が移動する予定。フェリシアの言うところでは、
  恐ろしく歴史的な建物だ、そうだよ。
  なんでもあのジョン・バリモアが住んでいたとかいないとか。僕にとってはどうでもいいけどね。
  笑っちゃうというかなんというか。やれやれ、だね。

流し読みして、紙を放り出した。
…が気になってもう一度読み直した−バリモアが住んでいたとかいないとか−
慌てて地図と住所を確認した。間違いない。あの家だ。
確かに、バリモアが暮らした、あの家。
私のすべてが始まった、あの家、あの場所。

息が、止まりそうだった。なんという偶然だろう。
私の記憶の波が逆巻き、私を渡米直後へと引きずり戻すようだった。
あれからもう50年近く、経った。

私の始まりの場所で、私は終わるのだろうか。


        


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