第6章 私のハムレット


私は早めに会場に着いた。すでに屋外劇場の準備は済んでおり、
舞台の初日の快い緊張が辺りに漲っている。とはいえ、単発の舞台なので、
普通の公演よりもやはり緊張度が高く、触れたらはじけ飛びそうなそんな空気が張り詰めている。
すぃ、と周りを見渡して私は大きく息をついた。そう。この舞台が終わったら。
たった1日のこのチャリティの舞台が終わったら、私ももう舞台から降りるのだ。
後はなんとかなる。そういう風にやってきた。

― アンドリューはまだか!あのボケがっ。何をやってるんだまだ来ないのかっ!!

その怒声に私は思わず顔を上げた。まだ来ていない?後どれだけもないというのに?
思わず身が硬くなった。主役がいなければ幕が開かない。
この舞台はなんとしてもやり遂げさせなければならない。
次の瞬間、手を挙げて私はタクシーを止めていた。

私はまだ、アンドリュー・ラリーのマネージャーなのだ。
個人的感情に縛られている暇は、なかった。

タクシーをあのアパートの下に待たせて言った。

―ここから降りてくるばかなオトコノコをひとり、セントラル・パークまで連行してやってちょうだい!

そういい残して、私は階段を駆け上がった。ヒールの音がやけに大きく響き渡る。
そして、私はそこに着いてしまった。

―アンドリュー!

私はドアをたたいた。中からうめき声がする。

―何を考えているの!早く出てらっしゃい!

ドアが開いて出てきたのは、惨めなまでに自信のなさそうな顔。

ー行かないといけないのかい…。

そういう彼を私は、引っ張り出した。視界の端に、ある影をしっかり捉えながら。
そして彼をドアから押し出し、私はその影に…手を伸ばそうとした

―リリアン、君は行かないの?

慌てて手をひっこめ、くるり、とアンドリューの情けない顔をはっしとにらみつけた。

―行くわよ。その情けない面が、ドアの向こうに消えたらね。さっさと行きなさい!

そうダメだししてほっと息をついた。その背中。打ちひしがれて、どうしようもなくなっている。
自身のなさそうな様子はアンドリューと同じくらいだった。ああ、やっぱりここにいた。
この様子だと、アンドリューと本気でやりあったに違いない。
どう声をかけたらいいのか分からなかった。

―ねぇあなた。ひどい顔してるわ。

…自分の声が自分のものではないような気が、していた。打ちひしがれたハムレットがそこにいた。
弾かれたように彼は振り向いた。

―私が、見えるのか。

―私は年を取っているから、何だって見えるのよ。普通の人には見えないものもね。
   でもそれだけじゃないわ。

私は、言おうとしている…その言葉をどう言っていいのか分からなかった。

―私はあなたを知ってるもの。あなたは、私のことなんて、覚えていないでしょうけれども。

彼の眼が、見開かれた。そう。なんだって?とでも言いたげな瞳。
そう、あなたの目はとても雄弁だった。言葉で話すよりあなたの目を見ているほうが、
あなたが言いたいことは、いつだってよく分かった。

―ここに、いたことがあるわ。ずっと、ずっと昔に。

驚いたように彼の目が私を追う。

― デンマークの王子様。とてつもない飲兵衛で、道化師。そうね、ピエロ。
   でも嘘がつけないの。思い切りの良いコメディアン。たまに受けないけれどね。そんな人。

ゆっくりと、立ち尽くす彼の周りを、思い出をたどりながら歩いて、彼と視線を合わせた。
彼は、ただ私を呆然と見ていた。
これで、良いのだ。彼がいた。そして彼は帰ってきたのだ。

―好きだったわ。とても。でも、過去の話。
   もう、行くわ。最後に確認したかっただけ。見ておきたかっただけなのよ。

私は、歩きながらソファにおいた、グレーのショールを取り上げた。
自慢の銀髪に合うように、と最近見つけたお気に入りのショール。
それを肩に羽織ながら私は一瞬、目を閉じた。
そう。見ておきたかったの。私の思い出の片鱗を。しまいこんでいた私の半生を。
彼を見ないようにして、背を向け、歩き出そうとした。

ー待ってくれ。

声が、突然声が追いかけてきた。

ー何よ?

とそのまま私は立ち止まった。振り返れない。彼の顔を見られなかった。

―…もしかして…もしかして君かい。君なのかい。

その声に、「君」と私を呼ぶその声に覚えがあった。ああ…この声だ…。
カツン、と私は振り返る。その瞳が明らかに、私を捉えていた。ああ…知っている。この瞳の色。
悪戯っぽい、でもまだ「信じられない」と言いたげな顔をして私を見つめている。
私の中にあのときの面影を探しているのが分かった。そして見つけたのも。

―私は若かった。

私は、沈黙を破る引き金を引いた。

―そして、結婚していた。君はクロークの隅で泣いていた
―泣いてなんかいなかったわ
―嘘付け。だんなさんが現れずに、独りで泣いていたくせに
   えっと相手は指揮者だっけか
―バイオリニスト。そういうあなただって結婚していたでしょう
―そうだっけ
―女優さんだったわ
―ああ…そうだったかな。女優とは結婚なんてするもんじゃないね
―またそんなことを言って

そういってふたりで笑った。

―ねぇ。ひとつ聞いていいかい。

彼が遠慮がちに私に尋ねた。自信なさそうな目。

―何?

―アンドリューは…アンドリューは、うまくやれるだろうか。私はうまく教えられただろうか。
  私は、私のもてるすべてを教えることができただろうか。どうなるだろうか。

私は思わず、笑ってしまった。そうだ。今の私は彼より年を取ってしまった。
そして…彼より多く、色々と見てきてしまったのだ。

―ねえ。いつからボーイスカウトの隊長になったのよ、あなた。

彼は心外そうに、眉を寄せた。

―あなたはきっと、渾身の力であの子にぶつかったのでしょうね。
  私もそうだわ。あの子を、一人前にしたくて大分頑張った。このハムレットもそうよ。
  でもね。今日の舞台は、私たちの仕事じゃないの。あの子の仕事なの。
  アンドリュー・ラリーというひとりの俳優の仕事なの。私たちは裏方なのよ。
  私たちにできるのは、ただあの子が成功することを祈るだけ。違うかしら。
  できることは全部したなら、後は祈るだけ。そうでしょう。
  そして、今日の功名は、彼のものなのよ。そうじゃなくって。

私は、そう言った。彼の顔が柔らかくなる。ほっとしたような表情になった。
これでいい。そう、これでいい。私はそう思って、くるり、と背を向けた。
そう。私は彼の手伝いをした。そうして彼の「役者」である何たるかを確かめ、
今ここに彼を見つけた。もう、思い残すことはない。

ーもう、行くわね。

ー待ってくれ!

声が、焦るように私を追いかけてきた。

―何なのよ。

私は思わず苦笑した。その調子が、あまりに慌てていてこっけいだったから。

―彼は…その、君のだんなさんは元気かい。
―ああ…そんなこと。別れたわ。離婚したの。あの後。
―離婚!?
―そうよ。裁判ではあなたの名前も出たわ。あなたは知らないでしょうけれど
―そうか。そうだったのか。

なぜか心持ち満足げな顔をして彼はちょっと考え込んだ。
そして唐突に、言葉を繋いで私を誘う。

―憶えているかい。ふたりして抜け出したんだったね
―そう。雨が降っていたのに
―シャンパンを何本か失敬して
―近くでチョコレート・バーをたくさん買いこんで!
―ずぶ濡れになってこの部屋に駆け込んだんだ
―本当に狂ってたとしか思えないわ
―喜ぶべき狂気さ

そして彼は一呼吸おいて笑った。そう。私が今までずっと求めてきた笑顔で笑った。

―そして、暖炉に火をつけて

ぱちん、と彼が指を鳴らした。そのとたんに暖炉に火が起きたのだ。
私がびっくりして見つめると

―銀の燭台にキャンドルを灯して

ぱちん

―好きな音楽をかけて。

ぱちん。

懐かしかった。私の覚えているあの日そのままだった。

―すごいわ。マジシャンね。あの日そのままだわ。

彼は私を見つめて微笑んだ。そして。手を差し出してこう言った

―ふたりで踊り狂ったよね。

私と踊ろう、と彼が誘っていた。その目は優しく、その手は間違いなく「私に」伸ばされていた
…かすかなためらいがあった。

―私は、もうこんなにおばあさんよ
―僕は、幽霊だ。
―恥ずかしいわ。何年も踊ってない。
―大丈夫。足を踏まれてもすり抜けるだけさ。踊ってないのは僕も一緒だ。

…もう、言い訳は通用しなかった。私は諦めてその手を取った。

―私の…ハムレット様

―どうぞ…、お嬢様。

彼は、逆の手をふと私の髪に伸ばしていった。

―やっぱり、そのヘアピン似合うよ。相変わらず。

彼は私をそっと引き寄せた。変わっていなかった。
もちろん…私と離れてからの月日が多少彼の体つきを変えてはいたけれど。

何十年、私はこの温もりを求めて一人で走り続けてきただろう。
やっと。今私は彼の腕の中で、安らいだ。


          


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