主を求めて…

〜信仰と共に生活すること。それが「信仰生活」。特別なことじゃない

2002年3月31日。ちょうど復活祭のミサを受けて、私はその足でTateBritainを回り、寮へ帰り、
あわただしく残りの荷物を整理して、Londonを後にしました。

ヨーロッパ。キリスト教文化の根付いた地域
ここでしかできないと、旅行するたびに教会めぐりをしていました。

私はアングリカン(英国国教会)の多いイギリスに住んでいたため、
カトリックよりアングリカンに出会うことの方が多いと考えていた。
なのになぜなのか…。
大学の裏にあったのはカトリックの教会(笑)という偶然
何かあるとそこへ駆け込み、よく祈っていました。
通っていた教会は「日本人コミュニティ」のある教会で、これは大学から30分ほど歩いたところに。
平日でも毎日3〜4回のミサがあり、そのうちのどれかに与ることにしていました

夏、私はフランスの知り合いのところにいました。
その人は日本人ではあったもののあるフランスの教会で聖歌隊をしていて、
それでいながらなぜかキリスト教徒ではない(笑)
Kyrie(主よ憐れみたまえ)などの曲は知っていても意味を知らないというので
日本語のミサ式次第から抜粋して意味を教えてあげたところ、興味を持つようになっていきました。
私がその人のところに行くと、(笑)矢のような質問が次々と降ってくるのです
答えられる質問も答えられない質問も。

その人は、私の求めに応じてしょっちゅうパリ市内の教会を巡ってくれました。
フランスへは、カトリック教国だということもありやはり行きたかったので本当にラッキーだったと思います
ひとつひとつの教会を巡る毎日が始まりました。
ある時はなにゆえかロシア語ミサに紛れ込んでしまったこともありましたし(苦笑)
サクレ・クール(Sacret Coer)への道は厳しくて、思わず「巡礼だよー」と思ったり。
マドレーヌ(La Madlaine)では、なぜかユダヤのオーソドックスの方が気になったり(笑)
ノートルダム(Notre d'amme de Paris)では、祈りよりも「Silence! Silence, s'il vous plait!!」と言っている
係員の方の声のほうが気になったり(笑)

名もない教会から、遠くから巡礼に来られる方が絶えない、不思議のメダイの発祥の地まで、
色々な教会を回りました。それこそとりつかれたかのように。私が今までしたかったこと…。
毎日毎日の「教会めぐり」、私にとっての巡礼でした

そんな中で、私が得たもの、それが「信仰と共に生活すること、それが信仰生活だ」ということです。
毎日毎日、地図を片手に、パリ郊外に住んでいる私のその知り合いすら知らない教会へ足を運び、
それが毎日の生活になっていくうちに、得たこと、それがこれでした。
日々の暮らしの中で、信仰を表していくこと…それは、私の始まりは「教会めぐり」でした
そのうち、教会にいない時間、「生活」している時間との境がなくなってきました。
もちろん、教会の中にいるときと外にいるときとでは「神妙さ」は格段に違うのですが…
教会の中にいる時間と、外にいる時間の境がなくなってくる、それはすなわち

「教会の中にいる心で、教会の外でも生活すること」

に他ならない、そう信じたいと思います(笑)逆だと怖いでしょ?(苦笑)
もちろん信心業も大事です。そして、それが自分の心を「教会の中にいる」状態に持っていくものです。
けれど、教会の外にいるときにも…その状態を保っていくこと、そして、「教会にいるとき」が特別な時でないこと。
「静かに祈る」時間ではあるけれども、その祈りを絶えず心に保ち、祈りの中に生きること

つい最近のイグナチオ教会でのデ・スーサ神父様司式の英語ミサでも、
そのような話が出てきて、とてもうれしかったのを憶えています。
テレーズが現代に生きる信者の模範として与えられたのはその「祈りのうちに生きる」ことで
彼女が主にすべてを託していくことができたから…、ではないでしょうか。
カルメルという観想会の中で生きていた彼女は、まさに「祈りに生きる」人だったのでしょうから…。

もちろん「信心業」を怠ることはよくないことです(あー耳が痛い(苦笑))が、
心の中に「信仰」を保ちながら心の「信仰」の中に生きること…それが、信仰生活なのだ。
それを、「毎日」の教会めぐりが、私に教えてくれました。教会にいる時間といない時間の境がなくなること
心はいつも、神様み前に上げること。
英語ミサの中に、「Lift up your heart」,に対して「 We lift them up to the Lord」、と
応える部分があります。
そう、いつでも、どこでも心を「祈りの中に」置くこと。これが、「信仰生活」なのだと。
何も、苦行をするだけ、奉仕をするだけ(もちろん大事です!)が、信仰生活ではないのだと。
奉仕ができなくても。体が苦行をうけつけなくても(あるいはしたくなくてしなくても?)
日々の生活で「心が神様のみ前にあればよいのだ」と…。
教会に「行くこと」が大事なのではなく。教会に行って、また再び信仰生活を続けるための力を
神様に「ください」とお願いしにいくこと…。
そして、教会の中にいる心で外でも生活すること。それが大事なのだと

日本では、平日はミサは早朝ばかりです。
教会に、毎日通うわけに行かなくなってしまいました。
心が落ち着かない時。教会に「行く」ことでまたその「心」を思い出したいとき。
ミサがないのは、最初とても辛いことでした。
「行く」ことだけが目的になっていたのかもしれません
そんなときにいつもふと思い出していたのが、ここに書いたことでした

忙しさや、疲れに悩まされ、ふと心が祈っていないことに気づく時。
「心」を思い出したくて時折教会に行って、ゆっくり目を閉じ、祈りを捧げます。
そして、また「外」へ出ていく勇気をいただくのです。

巡礼の細かい話は…また別のコーナーにて♪

さてここから私は、どんな出会いがあるのでしょう。まだまだ、主のご計画が楽しみです。

    


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