わたしは愛されている!

〜放蕩息子のたとえ話より〜

まずは、このおはなしを読んでみて下さい。有名な「放蕩息子のたとえ話」の前半の部分です。

また、イエスは言われた。「ある人に息子が2人いた。弟の方が父親に、
『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』
といった。それで父親は財産を二人に分けてやった。
何日も経たないうちに下の息子は全部を金に換えて遠い国に旅立ち、
そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

何もかも使い果たした時、その地方にひどい飢饉が起こって、
彼は食べるものにも困り始めた。
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、
その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、
食べ物をくれる人はだれもいなかった。

そこで、彼はわれに返って言った。
『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほど
パンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても、
罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」
と。』

そして彼はそこをたち父親の元に行った。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は彼を見つけて憐れに思い、
走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。
『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても、
罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません』

しかし、父親は僕たちに言った。
『急いでいちばん良い服を持ってきて、この子に着せ、
手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったからだ。』
そして、祝宴を始めた。
                (引用「新共同約聖書 ルカ 15:11−24」)

ちょっと長かったですね(笑)
この「お父さん」が、「神様」だと言うのは、容易に想像がつきますよね。
そして、この放蕩息子が、人間なんだよ、ときっとイエス様はおっしゃるのでしょう。

この箇所は福音中の福音と言われます。「赦し」の神を体現している、と。
でも「赦し」だけではないと、思いませんか。

「愛」

そう、愛情です。理屈っぽく叱るのではなく、何をしていたのだ、と問うわけでもなく、
きっとこの父親は、やきもきしていたに違いありません。
どこでどうしているだろうか。きちんと生きているのだろうか。何をしているのだろうか。
もっと言えば「あの子のことだ、きっと無駄遣いをしているのではないだろうか」とか。
親の無条件の愛情で、息子のことを心配していたに違いありません。

大事なのは、ここでイエス様が、「神」、畏敬の対象であった「神」を
「父親」という愛情深い姿で例えたことです。

無条件に息子を愛する父親の姿で、今までは「畏れ」の対象であった神を現したのです。
赦す、という上からの「指示」であったりするのではなく、
もちろん、父親という、権威ある存在ではあっても無条件に息子を愛しているのだと。
それを、おっしゃりたかったのでは、ないでしょうか。
どんな過ちであっても、そんなの構わない。帰ってきてくれたのだ、お帰り!息子よ!
この時の父親の気持ちは喜びに満ち溢れていたことでしょう。
もう死んだものとして諦め、いなかったものとして心にしまいこんでいたのでしょう。
「死んでいたのに生き返った」「いなくなっていたのに見つかった」
この表現は、その気持ちの現れでしょう。

そして同時に、イエス様はわたしたちにこの息子のようになれ、と諭されています。

それはどういうことなのでしょうか。
この息子、「罪を犯しました」と言っています。彼がしたことで「罪」って、なんですか?
「天に対しても、お父さんに対しても」…お父さんに対して、罪を犯しましたか?
殴ってないし、暴力振るってないし(汗)、使った財産は貰ったものだし、脅し取ったわけじゃない。
なんなんでしょうね。

もう一度、彼の言葉を聴いてみてください。

「天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう、息子と呼ばれる資格はありません」

ここで、ちょっと後半部分に触れますと、下の息子がいるんですから上の息子がいるんです。
で、その彼が出てくるのですが、彼は言います。
「お父さん、わたしはずっとあなたのために息子として仕えてきました。
言いつけにそむいたことだってないです」
そう、これが「息子と呼ばれる」息子のすべき態度なのです。
だから「息子」と自分は父親に呼ばれるようなよい息子ではない…。

そして。弟は、果たしてもらったものを、それをくれた父親が「あげてよかったなぁ」
と思うような使い方を、したでしょうか。
むしろ「あぁ、あげなければよかった…」と思うような使い方をしたのではないでしょうか。
彼はそれに気付いていたからこそ、帰って来られなかったのです。恥ずかしくて恥ずかしくて。
父親に対して、自分がしたことを告白して謝罪することができなかったのです。恥ずかしすぎて。
自分がなんて馬鹿なことをしたのだろうと。お父さんがどんなにがっかりするだろう。
なんて自分は恥ずかしい息子なのだろう。

だから帰れなかったのです。命の危険が迫るまで。食べ物がなくなるまで。
よく言いませんか。親不孝をしてしまうと、故郷の空は外国より遠く思われる…とか。
きっと彼も、その心境だったのでしょう。

そこで、息子と呼ばれなくてもよい。縁を切られてもよい。
ふざけるな、と一喝され、怒鳴られる覚悟で彼は帰ったことでしょう。
ただ、この自分を見て、せめて雇い人として置いてくれる愛情は、いや「情け」はあるだろう…と
一抹の期待を心に抱いて、帰って来たのだと思います。

その息子を待っていたのが、今さっき述べた父親の涙を流さんばかりの歓迎でした。

ぼろきれのような息子。遠くからでは誰だって、区別なんてつかなかったに違いない息子。
それを、遠くからでも、ちゃあんと見つけて駆け寄ってきたんです。

イエス様は、わたしたちに「何があっても帰っていらっしゃい。」
そう、教えているのでしょう。
自分がいただいた恵みを無駄遣いし、「ああ、こんな使い方…。なんて言い訳したらいいんだ」
と神様に対して思ったとき。
その時もうすでに神様は、わたしたちのその気持ちだけで十分満足なさいます。
だから、謝りに帰っていらっしゃい。

そう、おっしゃりたいのではないでしょうか。
わたしたちは人間です。欠陥の多い人間です。
完全になろうと努力し、頑張っても、やっぱり失敗はたくさんあります。
だから、失敗すると怖がって、神様から隠れようとします。
そんなこと、しなくったっていいんだよ。と。

神様は「父親」のように無条件の愛でわたしたちを包まれます。
いただいたお恵み。洗礼の恵み、信仰の恵み。日々の命、出会う人々。
すべてがプレゼントです。無条件にくださるわたしたちの財産です。
でもそれはすべて、神様からいただいたもの。
そして、それをどう使うかは私たちに委ねられているのです。

でも。
1デナリ金貨を、失うことを畏れて土に埋めておいた男のように、失敗を怖がって隠しておくのではなく、
人々にその光を輝かせ、自分の住む部屋を照らそうとしてみましょう。
時にはエゴイズムから、失敗することもあるでしょう。
怖がるのではなく。素直に、神様のみ前に来て、ごめんなさい…って言えばいいのです。

だって、わたしたちは愛されているのですから、こんなにも。

イエス様は、わたしたちが「怖がる」ことよりも「正義を恐れる」ことよりも、
その「愛」を受けようとすることを望んでおられるのです。

わたしたちは愛されています。こんなにも。
その愛情を、一抹の希望を持って信じたあの息子のように、
わたしたちも神様に愛を乞いましょう。

そして、多く赦され、多く愛することが、できますように…。


    


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