What is the belief to me..., as a Chiristian...?


わたしにとって、信仰って何?って言われたら困る。
わたしにとって信仰って、もうそれ自体で「わたし」だもの。

でもね、確かに色々疑問なことはある。
だって、聖変化とか、考えてみて?ふっつーの常識でね。
普通の、もなかの皮みたいなやつだよ。それが、聖変化して、ご聖体になる。
これ自体が一般的に考えて受け入れられることじゃないでしょう。
ホントかー?って疑ったことだって、なかったわけじゃない。
神を信じている人同士が戦争をしている。
なんで止めないの?って思ったりだって、しないかなあ。
お祈りだって、届いてるの?とか、色々色々頭で考えると切りがない。

で。そこで、唯物論的になってみて、

「神様っていない。」

…そういう世界が想像できるかなあと。

できないんですねー。これが。困ったことに。
たとえ、見た目が変わらずもなかの皮だったとしたって、だよ。
イエス様はいらっしゃるし、わたしたちを養ってくださっている。
霊的聖体拝領なんてのだってあるし、実際あれだって目に見えないでしょ。
あの時の祈りだって「来られたことを「信じ」、」って言うじゃない。
そう。信じているの。心で、感じるの。感触とか、視覚とか、じゃないの。

信じているの。

なんでご聖体になるって、信じられるのかって、
だって、そう言われたんだもん。(笑)至極単純だったりして。
目でみるのではなく。心の目で見ること。
目は開いているのに何も見えず、耳はあるのに何も聞こえず、ではなくて
そう、ミサをたてることで、十字架のイエス様の愛を思い、天のお父様を思い、
自分の心が神様によって養われていることを思い起こし、
そして、その証として、ご聖体をいただく。とかそういうことなんだと思うんだよね。

そして、なんでこんなに信じられるのか。
だって、神様、いらっしゃるもの(笑)

わたしの今までの短い20数年の間に置かれてきた、数々の布石。
偶然の出会い、一致、私の歩んできた道。
手を取られ、支えられ、用意されてきたとしか思われない数々の出来事。

こんなに愛されて、こんなにケアされてきたんだ。
ふとその偶然に気づく時、思わずにはいられない。
わたしたちには想像もつかないようなユニークな方法を神様は取られる。
「ユニーク」そう、一人一人に対して独特な方法。
わたしたちの想像をはるかに超えて、神様のご計画は、進んでいく。
そうとしか、思えない。

ならば。

理解できなくても、それがすべてじゃない。
わたしたちより素晴らしい方なんだもの。理解できるはずが、ないでしょう(笑)
だから、黙ってついていくだけです。
わたしの手を引っ張ってくださるこの方に、お任せするだけです。
何があってもどんなことがあっても、この方がこっちに行きたいって言うなら。
わたしを道具にしてやりたいことがあるなら、どうぞなさってください、って感じ。
こんなに愛されちゃってるんだもの。悪いようにするはずがないでしょう。

そう信じること。

信じることは愛すること。愛することは知ること。
知ることは愛すること。愛することは信じること。
わたしにとって、信仰ってそんなものです。

その時その時に「これがご意思なんだ」と感じたままに歩いていくこと。
その「招き」に、応えていくこと。そしてそのために心の耳を研ぎ澄ますこと。
無条件についていくこと。それくらいしかできないけれど。

むずかしーな。言葉にするって(笑)

でもそういうことじゃないかな。
無条件に「ついていきます!」って、いえること。
だと、思うのです。はい。


女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理