souvenir

伸び放題の緑に囲まれた郊外の小さな家は、充分過ぎるほど広かった。
何も余計なものはなく、そこにあるのは、
ベッドとテーブルセットが1対、応接セットが1セット。
セットのそろわないお皿とティーセット。
最低限の家電製品。でも洗濯機はなかった。
その代わりにあるのはコンポと、1台のアップライトピアノ。
外には薔薇が高く伸びて、日当たりの良さにかまけて
形なんかお構いなしに大きくなっていた。

朝から良い天気だった。
すっきりと晴れて仕事に行くための早起きも、嬉しい気分にさせるくらい。
起きて、身づくろいをして大き目のカップにたっぷり紅茶を淹れた。
ミルク少な目のミルクティーを淹れて、ゆっくりと飲み干した。
何の夢を見たのかはすっかり忘れたけれども、早めに目が覚めたのは得だったな。
そんなことを思いながら、ゆったりと外を見た。
思い切り息を吐ききってからこくり、と紅茶を飲み干して、
なぜか今日はバニラの紅茶が飲みたいと思いながら時計を見ると
…ゆっくりしすぎたらしい。いつも通りの時間になってしまっている。
慌てて化粧をして飛び出そうとして、はたと何か忘れているようなそんな気がする。
ドアの側で振り返って部屋を見て、Maubussinの香水が目に付く。
少しためらってから、その瓶を手に取り、軽めに首筋に吹き付けた。

駅へ向かう道は、ガーデニングをしている家が多く、あちこちから花の香りがする。
最近建ったばかりの小さな家は、どのくらい持ってきたのか知らないけれども
テラコッタのポットがベランダ狭しと並べられ、外に向かっても、
まるで敵のようにぶらさがっている。
大通りをはずれてちょっと曲がった路地にはいると、
少しだけ異国情緒を漂わせる家並みが5分ほど続く。
車のボンネットにはいつも同じ猫が寝ていて、うるさそうに、かったるそうに顔を上げる。
別段どこといって変わったところはないのだけれども、
朝のすがしい空気の中で家々がなじんでいて、あふれる緑が気持ちいい。
今日は、なぜか空気の香りまで特別な気がした。
何か、思い出させるような、そんな香りが混じっているような。
その正体を嗅ぎ分けるには5分という時間はあまりに短く、
駅前の喧騒に押し出され、波に飲まれるようにその香りも飲み込まれていった。

地下鉄に乗り換え、早起きがたたって崩れるように目的地まで眠り込み、
前の駅で飛び起きて仕事に向かう。

仕事中、時折立って紅茶を淹れながら、ふと外を見ると
どこかしらロンドンに似たような風情があることに気がついた。
ああ。あそこがテムズで、だとするとこのオフィス街はさしずめドックランド。
ビルの上から眺めるこの風景がロンドンと似ているなんて、今日初めて思った。
なんだか今日は変な日だ。
そう思いながら、ストレートの紅茶をちょっと濃い目に、席に戻る。
眠気を吹き飛ばしてくれるように願いながら。



朝私が起きると、いつも濃い目に淹れた、象印のバニラ紅茶が差し出された。
時折それはpecheだったりpoireだったりした。
朝は決まって、紅茶。コーヒーはインスタントでも飲まなかった。
Tシャツを着て起き上がって、ぼんやりとした頭で朝一番に眠気覚ましの濃い目の紅茶。
石灰質の水には、濃い目に淹れないと味が薄くてわからなくなってしまうから。
バニラの甘い香りが、渋味とあいまって余計に引き立てられる。
だからバニラの紅茶が好きだった。
代わりにpoireを私が淹れると、必ずこちらを向いてお礼を言うのだった。
窓辺から見えるピース種の薔薇は、いくつも蕾をつけている。
いくつか咲いているのは内側の柔らかなクリーム色が、
きれいなピンクとグラデーションを描いていて、見るからに良い香りがしそう。
窓を開けると、暑い空気が流れ込んでくる。
今日も暑くなりそう。そう言いながら、冷たい石の床に座り込んで
果物を口に放り込みながら、その日いちにちの計画を立てるのだ。



ふと上司がつぶやいた愚痴に思わず苦笑しながら、玄米茶を淹れる
私はこの香りが好きだ。ぴりりと背筋が伸ばされる中に、柔らかな暖かな日差しが感じられる気がする。
目の前にことん、と差し出すと、顔をこちらに向けて、
「悪いね、ありがとう」と言ってくれる。
ふと心が和む。
「いやすまないねぇ」と、目だけ上げていう人が多いと言うのに。
にっこりと笑って、自分の席で仕事の続きをする。
なんだか、ずいぶん前にも同じことがあったような気がする。
…今日は変な日だ。

ふぃ、と同僚が立って「暑い」と言いながら窓を開けると、熱気が流れ込んで来る。
その中に、かすかにさわやかさを残して。
そのとたんに、ふゎ…と何かが香った。
突然、運ばれてきたその風は、今朝、あの猫を見たときと同じだった。
なんだろう…。
それを突き止めようと、頭をひねったとたん、
パソコンの画面がスクリーンセーバーになる。
あわててマウスに手をかけた。
…Accessの画面がおかしくなっている…だからマイクロソフトって嫌よ。
ため息をひとつ。

運良く早目に仕事を終え、早足で1つ先の駅へと向かう。
始発電車に乗り込み、ヘッドフォンとCDをセットしてBBCのリスニング教材を聞く。
やっぱりBBCの英語は心地よく耳に響く。
ふと、あの狭い寮のピンクの部屋を思い出した。
借り物のテレビを長い机の上に置いて、BBCを見ていたあのころ。
本棚もろくになくて、本があふれていた。
窓は全開すると危ないので半分しか開けられず、かといってエアコンもない。
そんな寮だった。

そんなことを思い出しながら、駅に滑り込んだ電車から身体を引きずり出した。
帰ってからおいしい紅茶を飲んで一休みしよう。
そうひとりごちて、駅のデパートにお茶菓子を買いに吸い込まれた。
くだりエスカレーターの側に回っていくと、香水売り場がある。
なんとなく通り過ぎるはずのその場所で、突然そのショックは訪れた。

…何

目の前に、突然広がる何年か前の夏。
甘い香りに混じって、自分が何気なくつけてきたMaubussinの香が混ざる。
忘れていたdetailsが、目の前に広がり始めた。
朝から感じていた違和感の正体が初めて、はっきりした。
そして、見た夢もはっきり思い出した。

計画を実行するために出かける前に必ず香水を胸元にひと吹きする。
甘い香りと、どこかオリエンタルな香りと。
出かける前にたっぷりの紅茶を飲み干して、
買ったビスケットを包みのまま抱えて。
メトロのすえたにおいの中でも、その香りで息を継ぎ、
ショパンを時折口ずさみながら、緑の中を歩くのだった。

私は記憶の中で喘いだ。
もがいた。必死になって、逃れようとした。
苦しかった。突然こみ上げてくる香りにむせ返って、
喉が詰まりそうになった。

トゥララララ…トゥラララ…

突然、電話の着信音が鳴る。
慌ててさぐって、受けると
少し慌てたような、暖かな日差しのような、ほっくりとした土のような声が
私の耳に滑り込んできた。

その瞬間、空気が軽くなる。
「過去」から引き戻されて一気に世界が明るくなる気がした。
突然、香水の香りがあせて、耳に聞こえてくるショパンが
軽やかな調べと共に語りかけてきて、
ふと、過去の重みがつぃ、とカバンの中に入ってしまった。

久々に聞くその声に、ゆったりとした空気の流れを感じながら、
地下の食料品売り場に向かって行った。
手に取ったのは、バニラの紅茶とバタークッキー。

ゆっくりと今色づき始めた世界の中に、
夢からのsouvenirを溶かして、私の中に飲み込んでしまおう
この世界の中に溶かして 私の中に。

今日のミルクは少し多目にしよう。

     


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