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静かだ。

読みかけの本から目を上げ周りを見回して目を閉じて、また目を開いてみる。

ふと、時計を見るとすでにもう深夜をとっくに回っていた。
今日何杯目かもう分からない紅茶に手をのばして手に取り
口許に持っていくと、ベルガモットの香がゆっくりと立ち上る

…addictedだな

思わず口の中で呟いてそのカップの中の琥珀色を呟きとともに胸に収める。
実際こうしていると落ち着く。
人というのは不可解な生き物だから。必要外に会う必要もない。
まぁもっとも、自分が一番不可解な生き物であることは否めない。
それが分かっているから予想外の行動を取るのを避けるために
こうしていれば幾分か助かるというものだ。
自分も、他人も。

しかしまぁこうばっかりしているのも、飽きてくるので
頭を空にするためにもと、多少騒がしくしてみるために
音楽をかけてみようと、白い箱のスイッチをつけた。

ふと目を転じると、ベッドサイドに転がっている「携帯電話」が目に入る。
手に取るとすでに電池が消耗しているのが分かる。

やれやれ

そのぽっかりと空いた差込口にバッテリーチャージを差し込み、ため息をついた。
いつから携帯の鳴る回数が絆の深さだと勘違いするようになったのだろうか。
人は孤独と向き合う時間を失い、ひとりである空間を埋めるために
コンタクトリストを埋めていく。
穴は埋めるためにあるのだとでもいうかのように。
埋められなければ満たされないと、思ってでもいるかのように。
ちょうど、携帯電話がバッテリーチャージでもされるかのように。
だが、そのチャージも長く持つものではない。
だから無限大に長くなっていくのだ。電池のように常に補給されて。
だからコンタクトリストの大きさが、携帯電話の売り物になるのだ。
…いざなぎといざなみでもあるまいに。埋めたところで神を作ることなどできないのだ。

ウィ…ン…

小さなノイズがして、PCが音を吐き出し始めた。
さすがにかなり騒がしい音で、空気がかき回される。

飲み終ったカップを持ち上げて一瞬考えた後、流しに持っていった。
最近、茉莉花茶を飲んでいない。人にはよく淹れるのだが。
…自分の好きなものを自分に淹れないと言うのも偽善だな。

…音楽と空気と一緒に趣向も変えるか。

小さなケトルが湯気を吐き出すのを見ながら、茉莉花茶に蜂蜜を入れようとした、
―いや、実際入れて満足していた―
あの映画好きを思い出して思わず苦笑がもれた。
思い出す人間なんて数が知れている。というのは、驕りだろうか。

―時として 思い出す人間だとしてもそのコンタクトが必要ない場合もある

人の心は見えようがない。いくらでも変化していくものだ。
言葉という具体にすることによって心という抽象をかたちにしたつもりでも
概念や定義というものが人によって違う可能性がある限り、
その抽象は抽象であり続け、変わりゆくものでしかない。
だとするならば、自分という不可解な生き物が定義した、不可解な抽象によって
不可解でありながらも感じ取れたものを信じていくしかないのか。

フィルターの中にゆっくりと溜まっていく水をみつめながら、
とある友人のAccess to waterというプレゼンを思い出す。
水へのアクセス。
ヒトという無力な集団。何が欠けても生きていくことができず、
今さらにその「不可欠」が広がりつつあるもの。
進化しているのか、退化しているのか。

…このペシミストめ

自分を思わずたしなめて、2杯目の茉莉花茶を淹れる。
快い満足感。その瞬間に耳にかき回されている空気の振動が届く。
それとともに、8000マイル彼方にいながら、
常にコンタクトリストの一角を埋めている存在を思い出す。
自分の名前がコンタクトリストに入っているであろう事も知っている。
でありながら、一度も、緊急時ですら
この携帯電話のディスプレイに奴さんの名前が表示されたことはない。

それぞれが、己の命でしかできない闘いを闘っているのだ

バッテリーチャージが効くように簡単に人間は作られていない。
たとえそれが不可解な生き物であったとしても。
たとえコンタクトリストのひと隅が欠けたとて代わりで埋められるほど簡単ではない。
だからこそ人は新たなエナジーを求めてコンタクトリストを長くしていくのだろうか。
理解らない。それは、自分という生物を分かるのと同じくらい不可能なことだろう。

己の命でしかできない闘いを闘い続けることは己に挑み続けることでもあるのだ。

バッテリーチャージが効くように簡単に人間は作られていない。
だからこそ、傷は誰かに舐められても血を吹き出し続ける。
傷は癒されるものと相場が決まっている。
しかし、癒「される」ものなのか。それは、可能なのか。
「求める」癒しが、「与えられる」ものなのか。
己を知らぬ己に、それが「求めていた」ものだと分かるものなのか。

人と交わることは孤独を深めていく。
誰かといる騒々しさは、ひとりでいるときの静かさを深める。
誰かと深く交わることは己との闘いを現し、相手とのぶつかりをも現す。
そしてそれは、己を知り、知らしめることになっていく。
だからこそ己の求めるものを知り、知らせていく。
だからこそ「癒され」、「与える」ことを知っていく。

…知っていてわざと与えない、求めない、癒さないという手もありらしい。

ふと奴さんを思って苦笑がもれる。
奴さんもコンタクトリストの長い奴だが、奴は闘い続けている。
交わることによって生じる孤独とも、相手とも。

己の闘いを闘い続けるからこそ、相手の闘いの重さを敬い
相手の傷の深さを「己なりに」理解し、手を差し伸べようとすることができるのだろう。
己の不可解さに輪をかけて相手の闘いは不可解ではあるが、
それを敬うことはできる。「仲間」というのは、そういうものであるのかもしれない。

そして、それぞれの相手が己の心の中での闘いの武器になる。
信用という、一番不可解で厄介なカタチのない心の砦。
…そうして作られる「武器」である仲間とも、最初からそうであるわけではないだろう。
刃を交え、探り合っていくことで、ぶつかり合っていくことで、そうなっていく。

空白だからそれを埋めようとすることは、
孤独から逃げないということとは異なる。
徒に空白を埋めることは逆にその空白を増すからだ。

だからこそ、己と向き合うことが必要なのだ。
己の傷に立ち向かうことが必要なのだ。
自分という不可解な生き物と闘うことが必要なのだ。

が、ふと思う。
たまには休息も必要だ。

…そう思って時計を見ると、そろそろ明け方になっている。

闘いの休息より今は、体の休息だな。
そうひとりごちてベッドに滑り込む。
難しいことは後だ。
何より一番分かりやすいのは、今自分が眠いということなのだから。


     


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