時間の花


何もかもがひと時代前のような、そんなこのカフェで珈琲を飲むのが私の楽しみだ。
さっき買ってきたエッセイを広げながら、読むとはなしにゆっくりとページをめくる
別に、読んでいるわけではないのだけれどそんな「フリ」をするだけでいい。
誰かに見られていることを意識しているわけでもないし、誰かに見てほしいわけでもなく
ただ「私だけの」雰囲気を味わう贅沢な時間なのだ。

目の前に置かれたウェッジウッドの珈琲茶碗からは香ばしい珈琲の香りと一緒に
微かにリキュールのつんとした香りが立ち上ってくる。
このカフェのこの茶碗で、このアイリッシュ・クリームの乗った珈琲を飲みながら
木のテーブルでゆったりとこうした時間をすごす、それを時折の楽しみにし始めてからもう長い。
ひとつひとつのために豆を挽き、ゆっくりとお湯を注ぐときにぷっくりとできる珈琲粉の山。
それを見るのが私にとってはとても楽しい。
蛍光灯の煌々とした真っ白な光とは対照的に、白熱灯のやわらかな光が
ステンドグラスのランプシェイドからぼんやりとその色を映し出している。
漆喰の壁に映ってその色がどことなくさらにぼやかされているのを見ながら
私は目の前に置かれた珈琲茶碗に手を伸ばす。

唇にそのざらっとした感触が一瞬当たると、ゆっくりと象牙色になった私の珈琲が
喉へと通ってゆき、身体全体に香りが行き渡る。
身体中が私のその「贅沢」を楽しむように口の中でゆっくりとその宝石を転がして、
目を細めて私を包み込むようなそのふんわりとした空気の塊に身を預けて…

ふぅ…
と一息ついて手元のエッセイにまた目を落とす。買ってきたばかりのその本は私の好きな作家のものだ。
こうして贅沢な時間を過ごしながらゆったりと世界に浸ると、色々なものが見える気がする。
いつものせかせかとした時間の谷間に飲むコーヒーではなくて、こうしてゆったりとくつろいで
少しだけ気取って雰囲気を作り出して飲む珈琲はとても身体を潤してくれる。
目の前ではマスターがまた違うお客の珈琲をゆっくりと時間を計りながら淹れている。
時折私と目が合うとにっこりと笑って「今日はいかがですか」とかなんとか声をかけてくれる。
外界と遮断されて、そのカフェにだけ流れている時間のゆったりとした感触が
いつもの忙しい日常、分刻み秒刻みの生活をひととき忘れさせてくれる。

一口飲んで、エッセイをしまって手帳を取り出し、ゆっくりと思いつくことを書き付けていくと
あっという間に色々なものを思いつき、たくさんのリストができる。
アナ・スイのネイルがなくなってきたこと
高校時代の友達に連絡を入れること
送られてきた小切手を換金すること
ピアノの生徒の新しい楽譜を考えること
たまっているメールの返事をしてしまうこと
今度のパーティのCDを見繕っておくこと
旅行用のポーチを出しておくこと
エトセトラエトセトラ…

家や机の上で思い出すと何となく「忙しい」感じになりがちなのに
どうしてここで思い出すとなんだか優雅な気がするのだろうかと思ってしまう。
柔らかな光の中、キャンドルのともし火のような光の空間が、何もかも
ゆったりとした流れに変えてしまうのだろうか…
こうした時間を求めて、ここには色々な人がやってくる。
目の前にはスーツを着込んだサラリーマンがいる。
ちょっと見回すと、中年の女性たちがお稽古帰りなのか買い物の途中なのか、
しきりと世間話に花を咲かせている。
さっき入ってきたのはイマドキな格好をしたカップルだった。
そして今私の横に腰掛けたのはどう見ても70はくだらないであろう老紳士。

ビルの谷間のこのカフェには色々な人がやってくる。
ひとりひとりが、時間の花を持ってやってきて、そして萎れかけたその花に
珈琲を飲みながら栄養をあげて、再び生き生きと咲かせる。
そうしておいてから、灰色の男たちに対抗するためにまた地上に顔を出すのだ。
そんなことを考えながらひとりでにんまりとしてしまう。
さぁ、私もそろそろ、時間を貯金しに行こう。
またここに来るために…


    


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